過去の社章の仕様「象嵌」の歴史について 前編

古事類苑万金産業袋釜鍔之部に次のように書いてある。

「象嵌に3品あり、メクリと言うたがねにて、たとえば麻の葉、かごめなどを細かく掘って、
それをへしたがねというので一面にへして後、その彫目へ金とか銀とかを
はり金にて埋め上よりまたへしをかける。これを本象嵌という。

また、後入れと言うのは鍔のおもてに、あるいは笹、または蘭などを入れんととするとき、
その鍔の地を笹なり、蘭なりに薄く彫り、それに金延をその形に切りいれて、
これもまたへしたがねにて上をへすなり、これを古鍔ひ後より象嵌するので後入れと言う

さて、南番象嵌というのは、鍔の地にたがねにて布目を切り、
さて、延べはり金、金銀は勿論、うすい銅までも右の布目へかませて、
上よりへしたがねにてよくへして仕上げる。以上」

はり象嵌と色絵

古い象嵌の文献「古事類苑」には社章屋の
はり象嵌については書かれていません。

色絵と言う技法が江戸時代初期天明元年、
の古書に後藤三代乗真が行ってている事が書かれている。

香取著「日本の金工史」や佐藤省吾の話からの
その話からその技法を書いていこうと思います。

「彫刻の一部を金・銀などのうすく金をろう付けして、
その上をよくならした、上彫りしたりして仕上げたもので、
ろうの流れ方を見るために地金を一端に
一片のろうをおきその溶け方で判断する。

今の金張りのようにはうすくはないが、
かなりのうすい素材を使ったようです。」

色絵は江戸時代ばかりでなく、明治・大正・昭和と
盛んに彫金会では行われていました。

たとえば、後藤家の一派府川一則の三代は天賞堂にもその製品を
納めている記録がありますが、その作品歴の中に色絵が三十点以上も書かれています。

そのほか、裏にまで表の模様が抜けている切りはめの方法は
明治22年ごろ鎚起師黒川宗勝にほって発明されたと書かれています。

約千年の昔にすでにその手法があたと思われる文献もあり
われわれの初めてやり出したものと言う中にも
初めてでないものが多いことだろう。

金とうなどを流して模倣を作る流し象嵌も社章以外にはあまり見受けない
面白いものだが、つぎの研究にゆだねることにする。

社章屋の張り象嵌

大正6年頃から今行われている張り象嵌が始まった。
張りのできるものはすごく優れた職人でと評価される、
ですが、いま考えると実に幼稚なものでした。

元造幣局にいたことのある石山某氏から伝えられたという人もあり、
その出発点は帝国徽章かもしれないが、その発展はそのころの新進・
内外徽章のチビ信と言う職人が苦心して
かなりの道をすすめた。

鵜沢徽章の堀越良介氏もチビ信の影響を受けて鵜沢にその技術を植え付けた。
浅草方面はずっとあとになってやる人も出ていたが、学校もののメダルの少なかった下町では、
その必要をあまり感じなかったようだ。

文献に書かれている方法の初期は、
金や銀の今よりずっと厚いガラ打ち(台付つけない)を作り切り
タガネでチリを落し重ねてヤスリをかけ、別に打ち上げた
メダルの上に切り砂をつけ、張子をのせ、割バッソウをかて、
ガスフキをした。むだに一つ離れたところへ同じろうを
置きなるほどと感心してみていた覚えがある。

オシャカにしないよう、また、はがれないようにする苦心は一通りでなかった。
幾度も幾度もはがれをしらべ、やっと出来たものをプレスでこわごわ打った。

はみ出したところはタガネやキサゲで削り取り、またまたプレスして傷跡をならし、
それでもうまくいかないところは仕上げの時、つね木イブシでかくしたり、
最後に酒墨でお化粧などしておさめた。

初期、張物をやっている最中は、手間の事も、女の事も、一切の他の事を忘れて、
仕事に純粋に集中で出来る時だった。

また技術は幼稚でも、一番利潤の多い時代は、
その張象嵌時代と言われています。

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