徽章業界の歴史

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歴史ハンター白木です。

(引用文献:徽章と徽章業の歴史;筆者 山田盛三郎 V鹿ハンドブック 歴史ハンター白木)

上記で下記上げた徽章業界の歴史を書かせていただきます。
文献:徽章と徽章業の歴史;筆者 山田盛三郎
は非売品の国立図書館にしかない文献です。

現在は電話帳の職業分類に「徽章」は「記章」という名称で記載されています。
以前は「徽章」という文字が当てられていました。

その理由は「徽」も「記」も「章」もしるしの意でしたが、
「徽」が示すしるしとは、騎馬武者が背に担ぐ「旗印」を指しており、
時代は戦国時代ではないので「徽章」と言う言葉より「記章」と言う言葉の方が
適切な表現であると判断された事が理由として考えられます。

なので、現代の必要なしるしを彫刻や色彩で形どり表現した身辺に付ける標識・細貨類で、
メダル・バッジ・ボタン・ペンダント・マーク・プリント・フラッグ・トロフィー等を
包括する名称となり「記章」になりました。

「徽章」の技法が取り入れられたのは
歴史は西暦600年頃になると言われています。

飛鳥時代であり聖徳太子の時代です。

日本は中国や朝鮮半島との交易により
金工の知識・技術が入ってくる事により金工
技術が日本国内で技術進化していきます。

日本の金工の原点ともいえる部分になります。

それから、江戸時代になり、
文明開化の明治へと金工技術は成長し引き継がれました。

日本の優れた金工の賜物は「刀」だと思います。

デザインの面から見ると紋章を中心に家具調度、衣服、旗、陣幕等が、
金属工芸の面では刀剣装具、鎧兜、喫煙具、装身具、建築金具等が
錺職(かざりしょく)により製造されてきました。

又、勲章・徽章・釦(ぼたん)等は金工師による一品製作で作られてきました。

明治の頃(西暦1860ー1910年代)の東京の徽章屋には工芸品・装身具の
天賞堂、白牡丹、徽章専業の日本帝国徽章商会といった有力な企業が立ちあがりました。
これが日本最古の徽章会社です。以前この情報コンテンツでも取り上げましたが、
日本最古の徽章会社「日本帝国徽章商会」の記念碑が今でも残ってます。

大正初期(西暦1910年代後半)には、前述の徽章屋が町錺(まちかざり)となり
腰元錺(こしもとかざり)風の装身具職人も勲章・帽章・釦の製作を行い、
民間業者も広がり、横浜、大阪、名古屋へと徽章事業が拡大しました。

大正後期になって、第一次世界大戦(西暦1914?18)後の好況は装身具業界にも活況をもたらしました。
ですが、不況などから事業を長くは保つことができず、装身具業界からの徽章業への参入が相次ぎ、
多くが元来錺職が多かった台東区(下谷・浅草)に集まりました。
今でも台東区には徽章会社が多い理由はその理由が上げられます。

昭和(西暦1926年以降)に入ると不景気は進み、
勲章は民間では製造できなくなり、
日本の造幣局で作成されるようになりました。
その時代はグリコの景品メダルまで造幣局で製造したと言った状況になります。
こんな、歴史も日本にはありました。

第二次世界大戦(西暦1942 ?45)前になると、
国家の先き行きが風雲急を告げ、
徽章業は金工技術を買われ軍関係と満州国関係の仕事が多くなり活気を取り戻しました。
平和産業への転換策として東京徽章製造工業組合が生まれたのは昭和13年(西暦1938)でした。
然し、戦況不利に傾くや金属統制、代用品、軍需産業と、
徽章業界がかつて経験したことのない荒波に揉まれる事になります。

戦後の徽章業界は戦争で多くを失った後の日本国内の旺盛な需要(欲求)に裏打ちされる購買力に助けられて、
徽章業界復興の足がかりをつかみました。バッジ・ブローチ・銀器などが製品が復興に貢献してくれた商品です。
中でも既製品のスポーツバッジはスポーツ競技の隆盛と共に需要を支える根元となったと言われています。

戦後何年か経て業界団体を作ろうという動きが活発になり、
昭和22年(西暦1947)に日本彫型協会、続いて翌年東京都徽章工業協同組合ができ。
昭和33年(西暦1958)には全東京記章商工協同組合の結成へと進み、
更に同年全国記章関係組合連絡協議会
(略称: 全記連、大阪・愛知の加盟は昭和38年・西暦1963)の発足するまでに至りました。

この間日本の戦後の復興は目覚ましく、野球だけでなく、
進駐軍が持ち込んだボウリングが昭和30年代(西暦1955年以降)に爆発的人気を博し、
ボウリングブームによるトロフィーの成り金業者まで誕生しました。
この様な状況下で昭和39年(西暦1964)の東京オリンピックを迎えることになるのです。

東京オリンピックに係る徽章業界結束の母体となったのが
前述の全記連(A.D.2003年以降休会中)です。
五輪マーク使用製品の製造販売のため、全国記章事業推進会(出資金1,726万円、会員数79社)が
昭和38年(西暦1963)に発足、記念額、キーホルダー、ブローチ、バッジ、カフス・タイ止めセット、
タイ止めの22点で売上利益は2,000万円強を記録しました。
同時に取り扱ったいわゆる公式記念メダルは金2,300個、銀32,000個、銅83,000個に達し、
徽章業者が全国組織を活用し、一丸となって統一ある製品を販売出来たことは画期的、歴史的なことだと言われています。

以後以下のような国家的イベントが続きましたが、
業界組織(協同組合、全記連等)が主体となっての記念品協会形式で出資者を募り、
協賛事業が展開され今日に至っています。

大阪万国博覧会(西暦1970;昭和45)
札幌冬季オリンピック(西暦1972;昭和47)
沖縄海洋博覧会(西暦1975;昭和50)
神戸ポートアイランド博覧会(西暦1981;昭和56)
国際科学技術博覧会(科学万博?つくば’85)
国際花と緑の博覧会(西暦1990;平成2,大阪花博)
第12回アジア競技大会(西暦1994;平成6,広島)
長野冬季オリンピック(西暦1998;平成10)
秋田ワールドゲームズ(西暦2001;平成13)
FIFA2002ワールドカップ(西暦2002;平成14,日韓共催)
第5回アジア冬季競技大会(西暦2003;平成15,青森)
浜名湖花博(西暦2004;H16)

オリンピックの様なビッグイベントでは、総じて協賛事業は一定の成果を残しましたが、
世界都市博(西暦995;平成7)の様に政治的理由から開催中止に追い込まれるイベントもありました。
然しながら、長野オリンピックの頃から徽章類は海外の低価格物が市場に出回り始め、
国内製造業者を生業から撤退させる事態を招き大きな不安を生み出すこととなりました。
今後の課題として少子化、高齢化に伴う徽章業の事業継承を含め製造に係わる諸問題に重大な関心を抱かざるを得ない状況になってます。

近年の徽章業界は経営者の高齢化、後継ぎ問題があり。
個人スポーツ店の店じまいなどの影響もありIT化が進んできております。
ITの意識の強いメーカーが多くなってきています。

競技関連の種目表彰品やゴルフ関連の表彰品の市場が他業種の頑張りにより減少傾向に見受けられます。
金属も加工出来て、樹脂、ガラス、アクリルも加工が出来ないとニーズに対応できない時代と変わってきています。

これからの徽章業界の歴史を作るのは私たちの世代だと思い頑張っております