徽章の起源から歴史の概要

●徽章の始まる前

昔は徽章屋という言葉はなく、
勲章を作っていなくても、「勲章屋」と言われることもあった。
徽章屋の前はメダル屋と言っていた。
それから昭和になり、徽章、七宝、ネームプレートなどと言われるようになった。
「メダル屋」から「徽章屋」と言われるようになった。
徽章という言葉の認知はマークであったようです。
それからマークからバッジ屋という認知に変わっていき、
金工師として公的機関のバッジから会社の社章などの作成を行い、
トロフィーなどの作成を行っていった。
優れた金工の技術はあったが、アクセサリーなどの大きな
ビジネスチャンスに手を出さず、業界が発展していった流を見る限りでは、
金工の優れた技術を持つ職人が中心となり業界が形成されていったと想定されます。
なので、アクセサリーなどを手掛けて大きくなった、
大手企業と比べると規模間が小さい企業が多い。

●徽章・徽章業界の起源

日本の徽章という言葉は、明治8年(1875年)制定されたと文献には書かれています。
軍隊の服装規定中の徽章法に始まるもとと文献内推測されています。
徽章とはメダル・バッジ・ボタンなどの標識・表彰・記念などを具象した装身具の事を指します。
社会が徽章を用いる風習は、人間の自己や仲間の存在を誇示する
根強い心に支えられているものである言われています。
理由としてあげられる部分は、戦国時代(1467?1573)の合戦絵巻ものだけを見ても、
旗・差しものに一つ一つ紋章を強調し、武具、具足にも家紋が書かれていないものが少ないので、
そのためだと言われています。それが、明治維新後、怒涛のように押し寄せた西洋文化の移植によって、
武具の紋章や家紋が帽章・ボタンに変わり、勲章・メダル・バッジへと発展していったと言われています。
これが徽章の始まりです。

国内初めて製作されたメダル】

造幣寮(造幣局の前身)が作成した。
貨幣製造技術養成所卒業優等メダルです。
国内初めてメダルを作ったといわれている
人は鈴木梅吉で、製作に力を尽くした人が小山秀民です。
このメダルは独力で作成をおこなったと言われています。

●徽章の表現、用途、技法の先祖
徽章業の先祖は「錺師」と言う職業であると言われています。
穴居時代西暦600年ごろ中国や朝鮮との交易によて
得た金工知識と進化しながら、江戸時代まで連綿と続いて明治時代となった。
デザインから見ると、紋章を中心として家具調度・衣服・旗・陣幕などによって継承され、
金属工法からみると刀剣装具・よろい・かぶと・喫煙具・装身具
建築金具など、昔は錺師の領域であった。このことから解釈されています。
●製造方法の変化

昔は徽章・勲章・ボタンは熟練した錺師の一点ものでした。
一点ものから、金型原型を使ったプレス方法と鋳造を使った鋳物製作する方法に変わった。
それから、化学薬品などを使った製造方法で生産性を大きく上げてきた。
錺師は他の職種より一般的に高賃金を得られて、尊重されていた職業でした。
永年の修行を必要とした金工師だけが作り得るその難易度の高いものが、
原型によって量産できるようになったなったのは一つの産業革命と言われています。

●大正初期までの徽章業

江戸時代では町錺とすれば、平田・相原・涛川・大木なども
腰元錺風の権威をふるって勲章の製作を行っていた。
江戸と明治の境目ぐらいの時期には帽章とボタン屋製作が多く、
当時の横浜の、貿易商も大阪・京都・名古屋の装身具・時計商も徽章を取扱い
明治・大正初期までの職人は読み・書き・そろばんを習得した人はまれで、
むしろ学問が邪魔にされた時代でもあった。
また、小金を貯める堅物は、職人の風上にもおけぬ奴と煙たがられた。
当時は徽章業が時代の波に乗ったよい職業でありながら、
直接注文をとって製造する意欲なく、頭角を表す人も下請製造が席の山でその下請製造だけでも、
ひとかどの親方として豪勢な生活のできる時代であった。
むしろ、利益多い新しい職業で成功しようと野心に燃えたのは口入屋あら入店した
中年の素人番頭たちで徽章整合の工程も知らない状態で独立して、
業界全体が価格競争になり、下請製造の新人を使い注文し製造させるなど職人が
直接注文を受けるなど、徽章業界の欠陥はこの時期から芽を吹き始める。
●第一次世界大戦後

第一次大戦は日本はイギリスと手を組み、戦地がヨーロッパであり、優位性があり、
国内では「成金」という言葉がが生まれるほど、経済効果があった、
装身具の業界も大いに盛り上がりを見せていたが、好景気は長くかず、戦後の不況時代がやってきた。
国際連盟のよる軍備縮小や金輸出禁止などあいまって、産業界で倒産が続出し装身具製造も
その影響を受け、スポーツの流行で比較的安定的だった徽章業界もそれらの人々が
なだれ込んできた時期であった。
台東区(下谷・浅草)の徽章業者が得に多くなった時期はこの時期である。
徽章製造の年期のあけたものも多くなり、商人の安値でのお店あらしも行われた。
浅草森下の松本善次郎だけが出来たプレスによる型打ち業も、関東大震災後はその専門職もまし、
金・銀・地金商も溶解圧延とサービスするようになった。
このころから、大型のプレスローラーがなくても、製作できるようになり、
一般住宅で仕事を行い兄弟・家族間、企業の制裁下が目立ってきた。
昭和6年、世の中は不景気のどん底になっておりここのころは、民間ではなく造幣局で製作するようになっていた。
グリコのおまけのメダルもすべて造幣局で製造を行っていたのはこの時代です。
このころ業界では不正入札などがあり、業界全体が効果を上げる事がでいなかった。
このころ満州事変が起きた。

●第二次世界大戦

満州事変から徽章業界は軍事関連の仕事と満州事変の仕事が多くなり活気を取り戻した。
商店が増えて、そのおこぼれにうるおう業者も多くなった。だんだん戦時体制をなり、民需は抑えられたが、
徽章の需要は続いていた、このころ、金属統制、代用品、軍事産業と徽章業も荒波にもまれます。
平和産業として転換策として東京徽章製造工業組合がうまれたのは、昭和13年である。
少量原料特配の真鍮地金をいただいたのもこのころである。
このころ業界の歴史的ステップがあった。成増の共同施設工場で従軍記章の
組立仕上げをやるようになり、さらに下級勲章まで一貫作業で製造することになった。
でも、はじめから終わりまで、全部の業者が幸せににはあまりやくにたたず、
失敗してしまった。敗戦のために崩壊した形になっているが、それだけが原因ではない。

●戦後の業界

終戦直後は一般の衣類品・食糧は苦しいものであったが、
人々の心の中にはほのかに開放された喜びもあった。
昭和20年9月末から勲章工場から焼半田を材料とした
ブローチが「シルビーブローチ」と金名売って売り出されたが造るほうがびっくりするぐらい売れたようである。
進駐軍もバッジや銀製品を本国から取り寄せるより、注文に応じて作られることだできるので、
日本の技能がいかされた。このことで我が国の徽章業の復興の足掛かりになった。

●戦後の仲間作り

戦後解散式を行ったわけではないが、徽章業界の組織は自然と解散し無力になってしまった。
問題として師匠業の税率の高さがあり、内容は個人営業であるが、
法人組織にした者の急増もそのためであり税金対策を原因として徽章業界だけではなく一般産業全体からみても税務署対策は成功不成功の鍵の一つとなった。
組合などに入ると税率が上がることが原因で組合に加盟を行わないという企業が多くある状態にある。

●世界の工芸

1装飾具の始め

戦後衣類品がままならない状態にもかかわらず。ブローチ・バッジが町に現れた。
洞窟に住み石や骨で作った道具で仮をすることしかしらなかった原始時代のの人々も、
貝殻や骨や牙や木の実などで作ったアクセサリーを盛んに使っている。
彼らの生活に一番大切な武器にも負けないほど丹念に注意深くる繰られている。
そのアクセサリーはおしゃれのポイントという内容だけではなく、宗教的意味もあて、
悪魔の目をさらせるということにも用いられているようだ。
オリエントのメソポタミヤでは、金属を使って素晴らしい文明化が進んだ。
初めて金や青銅を使って装身具を作ったのはメソポタミヤのスメール人である。(紀元前5000年ごろ)
彼らは金の薄板を打ち出して作ったばかりでなく、細線や粒や砂利を使っオシャカつけをして使う方法を発見して、
エジプトやローマ―などに大きな影響を与えた。
ギリシャ時代になると、(紀元前700から400)ロウ付けの技法ばかりでなく、
一つの原型で大量生産した歴史が始まっている。

 

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